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お言葉を今一度読み直してみた [皇統問題]

「起」
戦後70年という大きな節目を過ぎ,2年後には,平成30年を迎えます。 私も80を越え,体力の面などから様々な制約を覚えることもあり,ここ数年,天皇としての自らの歩みを振り返るとともに,この先の自分の在り方や務めにつき,思いを致すようになりました。 本日は,社会の高齢化が進む中,天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います。 即位以来,私は国事行為を行うと共に,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として,これを守り続ける責任に深く思いを致し,更に日々新たになる日本と世界の中にあって,日本の皇室が,いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくかを考えつつ,今日に至っています。


●高齢化した天皇としての在り方とはどうあるべきか?
●日本国憲法下においての象徴としての望ましい在り方とはどうあるべきか?
●伝統を引き継ぎ、人々の期待にどう応えていくべきか?
「起」ではまず上記3点をあげている。
正直いうと高齢化した天皇は寝てればいいと思う。神じゃないんだから。いずれ死にゆく存在だ。誰だってそうだ。高齢化して例え痴呆症になったとしてもだ。前回の記事では痴呆症では天皇は務まらないと言ったが、撤回する。例えボケたとしても、それはそれで国民に愛される天皇なのだ。日本人は爺さんがボケたからといって見捨てたりする民族じゃない。それだけに社会問題にもなっているのだ。堂々とウンコ小便垂れ流し、そこらじゅうを徘徊し、時には飯はまだかのうと繰り返す。それでいいのだ。今上天皇は個人が考えたことだと言っているが、象徴という存在は日本列島とそこに住む人間・文明・文化そのものだ。とても個人で受けきれるものではない。どのような形であれ、介護が必要である存在なのだ。




「承」
そのような中,何年か前のことになりますが,2度の外科手術を受け,加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から,これから先,従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合,どのように身を処していくことが,国にとり,国民にとり,また,私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき,考えるようになりました。既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ,次第に進む身体の衰えを考慮する時,これまでのように,全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないかと案じています。 私が天皇の位についてから,ほぼ28年,この間かん私は,我が国における多くの喜びの時,また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において,日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め,これまで私が皇后と共に行おこなって来たほぼ全国に及ぶ旅は,国内のどこにおいても,その地域を愛し,その共同体を地道に支える市井しせいの人々のあることを私に認識させ,私がこの認識をもって,天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。

「承」では、今上天皇が考える天皇としての務めとは何か?を披歴している。
この内容で違和感を覚えるのは、「全身全霊」「旅」「皇后陛下」この3点。
まず「全身全霊」。この言葉は自分の行為に自分で使うのはおかしい。と感じる。違和感がある。
そして「旅」。旅ってのは楽しいもんだw違和感を感じる。
最後に「皇后陛下」。いちいち付いてくんなって思う。そんなに偉いなら手分けすりゃいいじぇねぇかと感じる。




「転」
天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。 天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,重い殯もがりの行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,その後喪儀そうぎに関連する行事が,1年間続きます。その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります。

「転」では、皇室の伝統を疑っている今上天皇の個人の意見。
国民や国民の生活を人質にして、「こんな天皇はいやだ」と言っている、ただのわがままともとらえられる。




「結」
始めにも述べましたように,憲法の下もと,天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で,このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。 国民の理解を得られることを,切に願っています。

「結」では、象徴でありながら、逆に国民の理解を得たいという矛盾した考えを吐露している。




「おことば」後の今上天皇の周囲の動きを見聞きすると、どうにも政府の譲歩を国民を人質にして勝ち取りたいという雰囲気が漂う。今や恒久的な生前退位制度、すなわち皇室典範改正が官軍ではないかと思わせるような状況である。民進党の中国人だか台湾人だか日本人(じゃないんじゃないの?)だか、国籍がわけがわからない女性党首が女系も女性も区別がつかないバカを巻き込もうとしている。


結論をいえば、譲位制度は恒久化していいと思う。
ただし、それは皇室が自浄能力を持っている限りは、である。


正直、小和田雅子を野放しにしている今の皇族に自浄能力があるとは思えない。
ダメなものはダメ、と誤魔化さずにいれば現状のような騒ぎにはなっていないはずだ。
今上天皇は小和田雅子を切るべきだ。今のままでエレベーター式に皇后になったとして、国民の理解や国外王室の理解を得られるだろうか?そうは思わない。本当の過激派右翼は今上天皇のお言葉からの現状への流れの中で背後の情報を得るだろう。その長が真実を知った時、日本の為には暗殺も問わないだろう。そうならない為にも、国民にも、世界にも、皇室の自浄能力を見せつけなければならない。
ダメなものはダメ。日本国民には絶望を知っている者がいる。そして底から這い上がろうとし、足掻いている者もいる。自殺する者もいる。犯罪に走る者もいる。象徴であるからには、善だけでなく悪でも在らなければならない。皇室が日本を代表する理想的な家庭?そんなのは単なるイメージにすぎない。象徴とイメージ。似て非なるものだ。イメージに固執するからなんとかして誤魔化そうとする。盲目的になる。

正直言うとニート的な天皇もいてもいいと思っている。それを隠さなければいいだけ。誤魔化そうとしなければいいだけ。だいたい伝統的に天皇なんてニートだろwろくなもんじゃねぇwww

俺もニートの経験あるけど、いいぞぉ~。毎日が日曜日。日課はオナニー。風呂付。飯付。家賃タダ。
ほんとはニートシタイッ!でもいい大人だから働く。それだけのこと。借金もあるし。隼買いたいし。
高速巡航するために俺は今働いている。小和田雅子に飯食わせるためじゃぁねぇ。

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